上野駅東西自由通路建設地点調査出土品
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更新日:2024年2月20日
台東区教育委員会
平成13年登載
本調査地は上野駅をまたぐ通路(現東西連絡路、通称パンダ橋)の、上野公園側の部分にあたります。
上野公園内には、上野忍岡遺跡群という旧石器時代から近世までの遺跡が広がっています。遺跡は上野台の東南の縁辺に位置し、千葉県境まで続く広大な東京低地に面しています。当地の北西には東京文化会館構内・国立西洋美術館(以下西美)構内などの遺跡が分布しています。
上野公園一帯は江戸時代には寛永寺境内地となっており、調査地は当初は子院の常照院、元禄11年(1698)以降は凌雲院が所在し、凌雲院の境内は18世紀中頃以降から徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の墓所となっていました。やはり凌雲院境内地であった西美地点では清水家の墓が発掘されています。
調査は平成10年、東西自由通路建設に伴い行われました。その結果縄文時代から近世までの遺構・遺物が豊富に発見されています。近世では、17世紀頃の常照院時代の段切状遺構、地下室や19世紀頃の凌雲院時代の石垣で区画された階段状の造成地と板石組の石槨墓(5基)などを検出しています。おそらく一橋家の墓所と推測されます。
地下室からは多くの高級な肥前・瀬戸美濃産陶磁器の他、中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出土しました。19世紀頃の遺物には門に関わる二体一対(仁王像か)の留蓋瓦、墓の副葬品である人形などが見られます。
近世以前では縄文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の竪穴住居跡が5軒発見されました。古墳時代の住居跡は火災にあったためか焼失しており、焼け落ちた屋根材が炭化したまま残っていました。その住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の銅製耳環)を含めて多くの土器が出土し、付近の摺鉢山古墳等にかかわる集落とも推測されます。また縄文時代~古代の土器が多種見つかっており、縄文の浅鉢形土器などは残りがいいものです。
地下室出土の17世紀頃の陶磁器類
住居跡出土の古墳時代後期の土器類・金環(中央下)
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