絹本著色朝顔・蜻蛉図
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更新日:2024年2月20日
真源寺
平成12年登載
縦93センチメートル、横33センチメートルの大きさの画面に、二世歌麿が朝顔を、窪俊満が蜻蛉を朗卿(経歴等詳細は不明)が秋草をそれぞれ淡彩で描いた掛幅装の作品です。また、特徴的なのは、図のほかに複数の人物が俳諧・狂歌の賛を寄せている点です。その名前を列挙すると、酒月米人、大田南畝、麦藁笛成、窪俊満、鹿都部真顔、石川雅望、三陀羅法師、浅草市人、山東京伝、曲亭馬琴と、文化・文政期の有名文人が勢ぞろいといった感があります。このように絵画と文章や俳諧、狂歌などで構成される形式の書画を寄合書といいます。本作品の場合、おそらく狂歌の宣伝などの配り物として作られたのでしょう。というのは、本図と同じ図柄にほぼ同じメンバー(一人入れ替わるのみ)、同じ狂歌・俳諧(窪俊満の「くれなゐ(紅)のいと(糸)の遊ふとみ(見)ゆるにそ日和定まる秋のかけろふ(蜻蛉)」、三陀羅法師の「せんたく(洗濯)の雫もかけぬ袖垣に白と浅黄をしほる朝皃」、山東京伝の「朝かほ(顔)や嵐の庭のやふ(破)れ傘」)を含む作品「朝顔図」が奈良県立美術館に所蔵されているからです。寄せ書きは、普通書画会などの席上で即興に描かれたものに多いのですが、本作品に関しては、画中狂歌に、既に狂歌集に発表してあるものが何点かあり、即興の妙を楽しむ書画会などの席画ではあり得ません。
本図に「六樹園」と画賛を寄せる石川雅望は、以前は宿屋飯盛と名乗る狂歌師でしたが、寛政の改革の影響で江戸にいられなくなり、しばらく活動をストップしていました。それが許されて江戸に戻り、活動を再開した時期が「六樹園」と名乗り始める文化5年(1808)以降のことなので、本図の制作時期も当然これ以降となります。また、いつまでに作られたのかと考えれば、作者のひとり、三陀羅法師の没した、文化11年(1814)8月8日までとなります。なお、初代喜多川歌麿は文化3年(1806)に亡くなっているので、本図の歌麿とは二世歌麿を指します。
本図の制作時期、文化5年(1808)から11年という時期は、狂歌界の大御所であった大田南畝が狂歌界から遠ざかり、鹿都部真顔と石川雅望がその後の狂歌界を二分し、徐々に対立を見せていた時期に当たります。この2人は自派の構成員獲得に向け、新しい試みをしており、本図もそういった宣伝活動を含めた試みの一つと考えられます。
絹本着色朝顔・蜻蛉図
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