福地源一郎(桜痴)墓
ページID:702707769
更新日:2024年2月20日
谷中霊園
平成7年登載
福地源一郎(1841-1906)は、長崎で生まれ、はじめ星泓、のち桜痴と号し、源一郎は通称です。明治時代前半、東京日々新聞(毎日新聞の前身)の主筆として筆をふるい、初めて社説を採用するなど、明治のジャーナリズムに大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍した人物です。
源一郎は、二長町(現・台東1・2丁目)、浅草馬道(現・浅草5・6丁目)、下谷茅町(現・池之端1丁目)など区内に居を定め、特に茅町にいた時期は、新聞に主権在君論を載せて、立憲帝政党を組織するなどの政治面、また、浅草公園の整備に携わるなどの経済面で、手腕を発揮した全盛期に重なります。
文学面での源一郎は、市川団十郎・河竹黙阿弥らと歌舞伎座を創設し、演劇改良運動などに携わる一方で、幕府衰亡論、幕末政治家などの歴史書の執筆にも精力的で、これらは現在も高く評価されています。
墓碑の高さは、約234センチメートル、夫人が共に葬られており、表面に福地源一郎之墓、側面に2人の戒名と、没年が刻まれています。
福地源一郎(桜痴)墓
お問い合わせ
生涯学習課文化財担当(生涯学習センター)
電話:03-5246-5828
ファクス:03-5246-5814