不忍池ってこんなところ
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更新日:2024年9月20日
中央図書館郷土・資料調査室では、現在、企画展「台東区の池と堀」を開催しています。不忍池は江戸時代から花見の名所であり、博覧会の会場にもなりました。ここでは、企画展で展示しきれない地図や浮世絵で不忍池の歴史をご紹介します。(画像はクリックするとデジタルアーカイブに移動し、拡大して見ることができます。)
不忍池の歴史
不忍池は、かつて台東区と文京区の区境にあった川が海に流れ出る入り江に位置しており、中世半ばに入り江が南下し、取り残されるかたちで池になったといわれています。
江戸時代
はじめに、江戸時代の地図を2点ご紹介します。
上の地図は嘉永2年(1849年)の『谷中本郷駒込小石川辺絵図』で、文京区との区境を流れていた藍染川(谷田川)が不忍池に流れ込むところが描かれています。下の地図は文久2年(1862年)の『東都下谷絵図』で、不忍池が今の京成上野駅や交番付近から流れ出て、三味線堀へ向かってくところが描かれています。
これらの地図が描かれる少し前の文化12年(1815年)から天保13年(1842年)頃の、不忍池を描いた浮世絵です。真ん中に弁天島があり、島へ渡るために橋が架けられています。
明治時代
明治10年(1877年)の博物局作成の地図です。北から藍染川が注ぎ、池の西側には花見橋、雪見橋、龍門橋などいくつかの橋が架かっています。池の南には三橋が見えます。
明治18年(1885年)に不忍池で行われていた競馬の様子を描いた浮世絵です。この前年に競馬のコースを整えるために不忍池の北側の埋め立てが行われました。花火と一緒に詰めて打ちあげられた人形やコマ等にはひとつずつパラシュートがつけられ、来場者への手土産になりました。
大正・昭和時代
大正6年(1917年)の陸地測量部(現在の国土地理院)作成の地図です。北側の出っ張りが埋め立てられています。また東京勧業博覧会(明治40年)の時に池の対岸へ渡れるよう観月橋が架けられました。
明治40年(1907年)に架けられた観月橋です。
次に、大正15年の陸地測量部作成の地図です。大正6年の地図と似ていますが、池の西側の藍染川が見えなくなっています。藍染川は大雨が降るとよくあふれていたようで、大正中頃から昭和はじめにかけて順次暗渠になりました。よみせ通りやへび道などのカーブを描いた道筋は川の跡です。
昭和7年の陸地測量部作成の地図です。観月橋がなくなり、昭和4年の築堤工事で池は分割されました。
最後に不忍池の西側を撮影した写真をご紹介します。上から昭和51年(1976年)、昭和61年(1986年)、平成10年(1998年)、平成20年(2008年)の写真です。
企画展では、ここでご紹介していない浮世絵などがご覧いただけます。どうぞおいでください。
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