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根岸二丁目町会(ねぎしにちょうめちょうかい) ※

ページID:167139244

更新日:2023年2月28日

地区

入谷地区

町会の区域

根岸2丁目1~22番

根岸2丁目

町会の歴史 (※)

 往古、上野の高台は武蔵野台からつづく先端の台地で、根岸は奥東京湾の海岸でした。
 旧利根川、荒川の流域に自然発生した沖積層の半島として、ここ根岸は区内においても早い時期(約6,000年前)に陸地になりました。奥東京湾が後退していく過程で、根岸東南一帯の地は、沼・池と姿を変え、陸地へと変遷いたしました。
 根岸の地名の由来は、上野の山麓にあるゆえ上野の「根」であり、沼地の水際であったゆえ「岸」である、というのが定説になっています。
 江戸時代、根岸は武洲豊島郡金杉村に属す東叡山領の農地でした。東叡山寛永寺の門主は、代々京都の皇室から法親王が江戸に降下し、就任されました。元禄の頃、門主様が、江戸の鶯は声がよくないと、京の鶯を取り寄せ根岸に放したことから、根岸は「鶯の里」「初音の里」といわれるようになります。
 宝暦3年には、上野の山麓の根岸に、広大な御隠殿を構えて住まわれました。根岸の里は京の雅の流れを汲んでもいるのです。
 昔の根岸は上野山を背景に、田園風景と清流音無川、それに加えて、春は梅、夏は蛍、秋は紅葉、月は御隠殿、冬は山茶花・雪見の里、と四季を通して雅趣の富んだ地でした。やがて、風趣を好む文人、墨客をはじめ大名や豪族が移り住み、文化・文政の頃は、行楽地・別荘地として栄えました。
 「寮の根岸」「紅梅の根岸」「呉竹の根岸」などの形容句が生まれ、天保6年には文人だけで30名を数えたといいます。その後、幕末天保の政令で、武家や町人が百姓地に住むことが禁じられ、根岸は一時原野のようにさびれたこともありました。
 明治の根岸は、鉄道は敷かれるものの、道路の新設・拡張はまったく行われず、江戸時代の根岸の趣を色濃く残す未だ別天地でした。再び文人、墨客、学者などさまざまな分野の文化人が集まり、田園まで宅地化されて市街地化が進み、明治22年5月1日より、金杉村石神井川用水(音無川)以南の地が下谷区に編入され、上・中・下根岸が起立されました。
 明治20年代には、根岸在住の森鴎外、森田思軒、岡倉天心を中心に、饗庭皇村、幸田露伴、坪内逍遥らが集まり、根岸党と称する交遊がありました。
 明治25年正岡子規が当地に移住。子規は当時不治の病であった脊椎カリエスを患いながら俳句・短歌革新運動を行い、明治35年、35歳で亡くなるまで、病床には多くの文人が集まりました。根岸子規庵は子規終焉の地です。
 大正から昭和にかけて、近代都市へと変貌すべく、大規模に道路が整備・新設されます。(現)言問通り(明治44年)、鶯谷駅開設(明治45年)、尾竹橋通り(大正10年)、寛永寺陸橋架橋(昭和3年)、そして音無川も道路の新設毎に暗渠となりました。
 戦前の根岸は、塀が連なり、木々が植えられた閑静な住宅街でした。
 昭和20年4月13日の戦災により、当町会は大方廃墟と化しましたが、かろうじて中村不折の書道博物館の庫と八二神社が残りました。子規庵も寒川鼠骨らによって昭和26年に再建されるなど、根岸の街は、戦後住民の懸命な努力によって復興しました。
 戦時中は時局を反映し、町会も国策推進の組織とされ、上根岸町会も昭和18年上根岸東、西町会と二分されます。戦後また上根岸町会と統一された時期もありましたが、昭和28年に再び東西二町会に分かれ、昭和40年の行政による町名変更によって西部上根岸町会が根岸二丁目町会の名称になりました。
 戦後、言問通りが拡幅され、寛永寺陸橋も改新されるとともに、昭和43年に着工された放射11号線(尾竹橋通り)により、二丁目町会は分断され、まちは大きく変わりました。
 現在通りに面してビルが立ち並ぶものの、一歩路地に入ると、江戸時代頃から続く曲がりくねった道は、今も生活道として使われています。当町会には、子規庵、中村不折書道博物館、八二神社、薬師堂等、貴重な文化財が密集しており、歴史と文化の街として今なお脚光を浴びております。

※1999年根岸二丁目町会会員名簿より引用

主な活動 (※)

1月 1日 八二神社初詣
2月 11日 八二神社祭礼施行
   町内の女性のための新年会(女性部主催)
4月 春の交通安全運動実施(交通部・町会員)
5月 元三島神社例大祭施行
7月 定時総会開催
   ラジオ体操を根岸児童遊園にて実施(厚生部)
8月 盆踊り納涼大会
   根岸二丁目子供お楽しみ会開催(青少年部) 射的・輪投げ等
9月 防災団主催の防災訓練実施、防災団総会開催
   秋の交通安全運動実施(交通部・町会員)
   交通災害共済加入業務協力(交通部)
   町会レクリエーション開催(厚生部)
12月 歳末助け合い運動に協力
   根岸二丁目餅つき大会開催(青少年部)
   年賀ポスター町内無料配布(女性部)
   歳末特別警戒実施(防火防災部・防犯部) 「火の用心」夜回り

※1999年根岸二丁目町会会員名簿より引用


(左)8月お楽しみ会 (右)8月盆踊り

町会区域内の名所・施設 (※)

◎子規庵
 正岡子規はこの場所に明治27年2月より移り住み、同35年9月19日に病のため逝去後も、母と妹はここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守り続けました。
 昭和20年4月14日の空襲により平屋造り家屋は焼失しましたが、昭和25年に鼠骨らにより旧規の通り再建され、昭和27年東京都文化史蹟、昭和35年東京都文化財に指定されています。

(参考)東京都文化財情報データベース、台東ぶらり散歩 其の六(台東区観光課発行)

◎書道博物館
 洋画家でもあり書家でもあった中村不折(1866~1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館です。殷時代の甲骨に始まり、青銅器、仏像、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財がその多くを占めています。
 書道博物館は、既存の建物である本館と、寄贈後新たに建設した中村不折記念館からなります。
 本館には、金石学に密接な関係のある文字の刻まれた、あるいは書き込まれた収蔵品を常設展示しており、漢字の書法や文字の歴史をたどる上で非常に重要な資料を目にすることができます。
 中村不折記念館では、碑拓法帖、経巻文書、文人法書等の類を、テーマに基づいた年4回の企画展・特別展で紹介しています。また、中村不折記念室を設け、不折の作品やその関係書類を展示しています。

(引用)書道博物館ホームページ

◎八二神社
 根岸二丁目町内にある、町内でお祀りしている宮司、神主のいない小さな神社です。
 当神社は明治5年4月(元加賀百万石藩主)前田公が当地に移住せられ、この地を根岸の里と称し、屋敷内に社殿を築造して
 八坂大神(悪疫防護・無病息災・健康招運を祈る)
 稲荷大神(商売繁盛・家内安全を祈る)
 菅原大神(文教の守護と進歩発展を祈る) 殊に受験の神様である
 この三神を守護神として祭り、三神社と称しております。
 毎年祭典を挙行して、住民の安全と幸福を祈願せられたのであります。
 大正12年の関東大震災の際には被害をまぬがれました。
 大正13年前田公は屋敷を開放し土地を住民に分譲すると同時に、三神社を八二神社と改称し、神社の守護を住民になさしめ、毎年2月11日を例大祭日と定めたものであります。
 現在の社殿は昭和6年9月に竣工したものであります。

※八二神社境内案内板より

町会のホームページ

加入等のお問い合わせ

入谷地区センター
根岸3丁目1番19号 YSビル6階
電話:03-3876-1821

(※)

(※)の記載がある項目は、町会の協力のもと作成しました。

お問い合わせ

区民課区民係

電話:03-5246-1122

ファクス:03-5246-1129

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